【梟雄列伝】

このページでは
國盗り物語に登場する人物全てを網羅
家の歴史や基本戦略を見ながら
国盗り方針の参考にしてください


★足利軍★
【足利家】
●足利義教(隠居)
 『我が手で悲願の御家再興を!』
●足利りむ(正室)
 『筋肉最高!』
●足利遙(当主)
 『日の本統一じゃ!』

<主紋> <副紋>

<家紋>
・主紋:足利二つ引(清和源氏義家流)
・副紋:五七の桐
・両紋とも足利本家ゆかりの紋。

<本拠地>
・上野國邑楽(おうら)

<出自>
・室町後期、古賀公方であった足利氏の庶流氏族。
 古賀公方の祖先は尊氏の次男・基氏。
 (2代将軍・義詮の弟)
 江戸期には没落し遠縁喜連川氏に援助を受ける。
 義教の代には金魚売りにまで身をやつし、
 本家筋では一族として疑問との声も囁かれる。
 しかし、代々の祖先より足利家の庶流であることが伝えられ、
 周辺住民からは「足利様」と慕われている。
 御家再興の夢を捨てきれず、独立して挙兵。
・当代の義教は、奇しくも室町6代将軍と同名、
 嘉吉の乱に倒れた将軍の生まれ変わりと称し、
 怨敵赤松氏をはじめ、
 その地盤を受け継ぐ関西圏大名
 (美樹・和泉・書くの・鷺沢)を敵視。
 更に、一族と出自を同じくする新田氏、
 とりわけ後裔を称する徳川・松平氏を激しく敵視。
 徳川政権(松平智康)の倒れた今、
 殲滅の嵐が吹き荒れる、、、。
・本拠地は旧領である古賀や塩谷喜連川、
 更には本家足利を射程に収める上野邑楽を選んだ。
 嫡流ではないとはいえ名族は名族、
 新たな大名として名乗りを上げた。
・また、正室:りむは内助として浮世絵師を生業とし、
 江戸の流行絵師として高名。
 夏至と冬至の江戸前島(有明)で行われる絵師祭などで、
 夫の戦費を捻出している。
 また、姫自身も馬を駆る姫武者としても名高い。


<動向(義教・りむ)>
・名族復活。
 武門としての血か、
 名馬を操りあっという間に東西日本の基幹を攻め落とす。
 情報戦にも傑出しており、
 忍びの出である国枝氏の取り立てにはじまり、
 筑前兄弟を召し抱えるなど、家臣団も充実している。
・戦略は拡張主義。
 長距離遠征で一気に塗り潰す様はまさに鬼神。
・覇王となり幕府を開くと同時に混乱していた日本に諸制度を制定、
 領土の再編をすすめ、日の本の統一を目指す。

★足利軍★
【国枝家】(足利家軍師)
●国枝天柱(くにえだ たかもと)
 『街道に生き、街道に死するが我が信念也!』

<家紋>
・寄り掛り輪違い
 以下の出自に記すように、
 生家より伝えられた紋ではない。
・高禄での召し抱えに恩義を感じ、
 主家である足利氏との「繋がり」を示すよう、
 輪違い紋を採用。
 もちろん、右上位が主家の足利氏、
 左下位が国枝氏である。

<本拠地>
・栃木県小山市

<出自>
・ようとして知れない。
 街道に詳しい旅人の姿を纏う一匹狼の忍者。
 主君の足利氏でさえその素性を掴めずにいる。
 「お知りになりたければ、お調べになるがよろしかろう。」
 伊賀とも甲賀とも、また、乱破とも根来とも一向宗崩れとも囁かれ、
 多くの情報網を持ってしてもその正体を掴めない。 
 それもそのはず、天柱自身、その記憶は判然とせず、
 捨て子から這い上がり、
 多くの戦乱の中で忍の末端組織を渡り歩いたに過ぎない。
 途中、身分を偽るため(武家を名乗ることが多い)
 都合の良い用に便宜的に姓名を名乗る。
 もちろん用途に応じて使い分けるだけの数もあり、
 足利氏家臣としての名前が国枝氏、なのである。
・忍道では亜流を極めたが為に、各流派にある程度の人脈があり、
 流れてくる様々な情報を集約する術に長ける。
・定住を嫌い、旅の中で己の安住を得るため、
 本国にはほとんど立ち寄らず、
 折角足利氏より与えられた邸宅は蜘蛛の巣だらけという有様。
 長く日陰の生活が続いたため、
 武将という立場に今ひとつ違和感が拭えず、
 放浪は足利氏への恩義への照れ隠しともとれる。
 忠義は篤い。
・境界で権勢を争う郷錦家や恩田家の情報をいち早く収拾、
 結城氏北上戦や恩田氏の木曽遠征、
 鉄琳氏の大阪遠征などを事前に足利氏に伝えていたため、
 機先を制しての勢力拡大が可能だったと言える。


<性格>
・自らも騎馬を操り大太刀を振るう猛将、
 一部で抜け忍討伐に出会うこともあるが、
 どちらかと言えば諜報を駆使して無益な戦闘を避ける知性派。

★足利軍★
【筑前家】(足利家武将)
●筑前羅倶之介(ちくぜん らくのすけ)
 『阿(あ)!』
●筑前暁丸(ちくぜん あかつきまる)
 『吽(うん)!』

<家紋>
・丸に橘
 孤児であった双子に出自を示す家紋はなかった。
 旗揚げをする際、
 自分たちの育った教会のシンボルツリーであった橘を、
 平和を表す丸輪で囲んで家紋とした。

<本拠地>
・筑前國筑紫

<出自>
・孤児であり、詳しい出自は未詳である。
 春の朝、筑紫の教会に捨てられていたのを発見され、
 教会内の孤児院にて育てられた。
・羅倶之介の左肩に「オリーブ油」、
 暁丸の右肩に「石灰」を現す錬金術記号が焼き印されており、
 西欧ギルド系秘密結社の関与を窺わせる。
・地元では「教会(チャペル)の双子」として知られており、
 幼少期から神童と呼ばれる程の才能を発揮。
 特に内政面で特化。
 行方をくらました前領主:鷺沢の失政、
 及び外来大名水神氏による植民政策に住民が反旗を翻した。
 それに呼応して打ち出した商業・農業面の政策が共感を呼び、
 領主として住民に担ぎ上げられた経緯を持つ。
・歴史の表舞台に立つことで、
 自分たちの出自が明らかになることを望み、
 最大勢力である足利氏に仕える決心をする。
・執政は双子の二人三脚で行い、
 そのため、本拠地も同地として登録される。
 領地は各々の獲得領別に別れているが、
 政策は両地共に統一されているという
 独特の統治形式を敷いている。

<性格>
・兄:羅倶之介
 物事に動じず、大きく構えて揺るがない。
 悪く言えば大雑把で面倒くさがりだが、
 物事の大局を見て確実な一太刀を見舞う勇将である。
 割と気分屋な面があり、
 そのために二重人格・冷たいと評されることもあるが、
 当人はそこまで考えての行動ではなく、
 弟によくフォローされている。
・弟:暁丸
 世話焼きたがりの弟。
 兄があまりに動じない性格のため、
 余計な気苦労を背負ってはやきもきしている。
 根が真面目で素直だが、
 気が弱く、考え込むあまり策に溺れる面もある。
 その時は、剛胆な羅倶之介のフォローで持ち直す。
・お互いが掛けては政にならないことをよく自覚しており、
 「どちらが上」というポジションは取らず、
 共同統治の原則を崩さない。
・戦略は主に周辺併合策。

★郷錦連合軍★
【郷錦家】(郷錦家当主)
●鉄琳虎也(てつりん とらしげ)
 『人材こそ国の柱と心得たり!』

<家紋>
・三盛亀甲剣花菱
 鉄琳家代々の紋は三盛亀甲(無地)だが、
 腐敗しきっていた旧鉄琳家と決別する意味で紋を変えることに。
 金沢再建に立ち上がった郷錦家に亀甲紋の継承を許し、
 更には郷錦家の家紋を本家に取り入れることで、
 その名跡を復興しようとした。


<本拠地>
・加賀国河北

<出自>
・鉄琳家をさかのぼると、源平合戦で活躍した弓の名手、
 那須与一の家来(名前は不明)にさかのぼるといわれている。
 しかし祖父の死後、父を通してのまた聞きであることもあり、
 鉄琳虎也自身はこの出自に疑問を持っている。


 はっきりとさかのぼれるのは祖父勢次郎からである。
 阿波国徳島の商人出身であるとも言われ、
 本拠を加賀国金沢に移してから鍛冶屋を営む。
 床屋など職人が使う業務用の道具などを取り扱うようになり
 職人の元締めとして商才を発揮する。
 その後、刀剣扱い商として全国に知られることとなり、
 時の将軍や大名へ献上品をはじめ、
 市中に出回る殆どの刀剣の総元締めの問屋となった。
 【宗近能登(むねちかのと)】と言えば、
 刀剣鑑定の「折り紙付き」で名を知らぬ者無き大店(おおだな)であった。
 勢次郎はその豊富な資金を背景に加賀の政を牛耳り、 
 二つ名を北陸小鉄とまで呼ばれた武闘派の首領となった。


 その後、跡を継ぐと思われた勢次郎の子、年太郎は、
 利権にまみれた家業を継ぐのを嫌い、
 地元の自警団にみずからの活躍の場を求めた。
 このため、商家としての宗近能登は大番頭に継承されるが、
 住民自治組織による水上氏擁立を受けて地盤が弱体化したことも手伝い、
 勢力を大幅に縮小する。
 しかし、水上氏が関東に領地替えとなってから旧勢力の復権が進み、 
 次第に宗近能登にまつわる利権が抗争を生む混乱期に突入。
 それらを一掃したのが、
 馬借軍団の資金で宗近能登を丸抱えした郷錦家である。
 その際、父である年太郎は警護役として郷錦家に仕官している。


 鉄琳虎也は郷錦聖之進の乳兄弟として育てられ、
 屋台骨とも言える名馬専門の騎馬商を統括する。
 しかし、騎馬商人であることに疑問を感じはじめ、
 教育の力により優秀な人材を育成することこそが、
 国家の安寧につながるとの信念に至り、
 郷錦家との縁を一旦絶ち、単身で私塾を開校。
 しかし、その野望はいまだ完全には達成されておらず、
 そのため資金力も極度に乏しいことから、
 再び主君郷錦聖之進のもとに身を寄せ、許される。
 現在は生涯の忠誠を誓いながら、
 教育による国家復興の日を夢見ている。


<性格>
・表向き義に篤そうなところがあるが、
 実はかなり計算高いらしい。
 知謀、戦略立案力、騎馬隊の訓練度などから、
 覇王に最も近いと勝手に思っているところがある。
 しかし覇王への道を突っ走りたいあまり、
 資金力を省みない無謀な遠征を立案、実行しようとすることも多く、
 主君郷錦聖之進にたしなめられること多数。
 冷静沈着な謀将だと思っているのは本人だけのようである


<基本戦略>
・すべてを真っ赤に染めた超強力な騎馬軍団を擁している。
 特に夜襲に強く、深夜の幹線国道には要注意。
 夜間、国道に沿って一気に本領を拡大することが多い。
 その勇猛果敢さと驚異的な行動力から「赤い軍団」と恐れられ、
 その名は近畿から東北にまで鳴り響いている。
 だが、本拠を北陸に置くため、
 戦国ゲームのお約束として、冬季の進軍は困難を極める

★郷錦連合軍★
【郷錦家】
●郷錦聖之進(隠居)
 『情報こそ我が命!』

<家紋>
・亀甲に剣花菱
 亀甲紋は北方を守護する玄武(亀)に由来する神紋である。
 郷錦家はもともと剣花菱紋を用いていたが、
 加賀の名族鉄琳家の実権を掌握した際、
 主家の紋・三盛亀甲紋の一部を取り入れた。
 相続の正統性を主張したものと思われる。


<本拠地>
・加賀國金沢

<出自>
・郷錦家は、もとは下総にあって平将門の乱に活躍し、
 自力をつけていった地方有力農民から出てきた武士だが、
 室町時代に入り在地領主との抗争に敗れ、衰退していた。
 しかし有力農民から馬借に転じ、第22代目当主・進之助の時代には、
 20トントラックを駆って北は蝦夷から南は琉球までを席巻する、
 一大馬借集団としての地位を確立していた。
 その結果、
 江戸末期松平智康の時代には伝馬(てんま)役として重用された。
・その跡を継いだ23代目当主・聖之進は、
 父が一代にして築き上げた一大馬借集団の後を継ぐのを嫌い、
 持ち前の情報技術によって北陸方面に進出。
 その頃の加賀金沢は
 揺籃期に水上氏が関東領へ本拠地替えを行った際、
 水上氏以前の権力者であった鉄琳家が復権しており、
 政治は旧時代の遺恨を引きずって汚職にまみれていた。
 そんな鉄琳家の隙を伺い、
 豊富な資金力で在地領主鉄琳家の実権を事実上掌握、
 天下統一へと踏み出し始めていた。


<性格・動向>
・思慮深く謀略にも長ける。
 北陸で勢力を拡大することができたのも、
 張り巡らされた情報網と、謀略に次ぐ謀略に寄るところが大きい。
 しかし、槍や鉄砲、馬術には劣っている。 
 闇討ちでしとめるのはかなり困難と思われる。
・現在は関東武蔵野の一揆勢「たつべ軍」に参じ、
 中央の情報を掴みながら戦略を立てている。

★郷錦連合軍★
【たつべ家】
●たつべ
 『百姓一揆をなめるでねぇぞ!』

<家紋>
・真向き大根の葉
 百姓一揆の頭目、たつべ氏。
 鍬や鋤といった農具ではなく、大根を旗印としたのは、
 いつまでも百姓として生きてゆく志を現したため。


<本拠地>
・武蔵國杉並

<出自>
・代々の百姓であり、姓を持たないため出自は不明。
 江戸末期の
松平智康の時代、
 悪政により農民への年貢が特に厳しく、
 助郷や賦役まで課せられていた武蔵野では、
 恩田軍蜂起と共に一揆や打ち壊しが頻発、
 百姓一揆として幕府を苦しめる。
・その百姓一揆の頭目として知られるたつべ氏は、
 黎明期・揺籃期を恩田・私が書くの氏の勢力下で育つ。
 
父・たつ吉は両大名とは独立した勢力を保ち続け、
 一種の領内独立国として百姓の政(まつりごと)を治める。 
・揺籃時代末期、父・たつ吉52歳でこの世を去ったのち、
 たつべが21歳で家督を継ぐ。
 恩田氏分裂による恩田七党の乱の鎮圧に功績があり、
 時の統治大名書くの氏より正式の大名として対等に遇されることなった。
 そして震災によって国土が混乱する中、
 百姓の世を実現するため、立ち上がった。
・大名となってからも百姓で在り続けようと、
 大名姓を敢えて名乗らずにいる孤高の士。
・百姓の百姓による百姓のための政をモットーに、
 自然に優しい年貢の取り立てをしている。
 (年貢高くすると乱開発進んじゃうし)
 大規模な館の造営や築城は行わず、
 都市化を避けて「ムラ」で在り続けようと言う姿勢は、
 あくまでも百姓の側に立つたつべ氏ならではの政策だ。


<天下統一時の公約>
 1.年貢の緩和
 2.刀狩の一部見直し
 3.入鉄砲と出女に対しSuicaカード配布(タッチ&ゴー)
 以上3点をお約束いたします。


<動向(たつべ)>
・百姓一揆は、組織的なゲリラ戦である。
 虐げられた百姓衆の情報を掴むと、
 天誅を加えるために出撃する。
・現在は加賀金沢の郷錦氏を配下に加え、
 郷錦氏の情報力を背景に、
 ムラ造りに奔走している。

★郷錦連合軍★
【志馬家】
●志馬玄冬(しま げんとう)
 『馬と共に生き、駆けることこそ
   大地の民の誇りなり!』

<家紋>
・丸に橘
 藤原氏と対抗して地位を追われた橘氏、
 姓を変えながらも紋だけは必死に守り通した。

 志馬氏はその流れを汲む。

<本拠地>
・蝦夷國札幌 

<出自>
・家紋にあらわされるように、
 ルーツは奈良時代の橘氏の庶流に遡ると言われる。
 奈良麻呂の乱により藤原氏に実権を奪われた後、
 平安期に姓を志馬に変え、雅楽士として朝廷に仕えた。
 しかし、橘流の家系が藤原氏に疎まれたため、
 ほどなくして会津へ隠棲することになる。
・そして迎えたるこの徳川の治世の終焉。
 会津は毒帝・恩田氏・水上氏などの治世を受けるが、
 特に行動は起こさず、領民として静観。
 しかし、震災後に先代玄秋(げんしゅう)が乱心し、
 突如、 奥羽越列藩同盟に参加、
 更には白虎を支援するも、
 徳川軍壊滅を目指す足利軍により会津を追われ、
 津軽海峡を渡って箱舘へ。
 ここで榎本らと共に五稜郭に立て籠もるも、
 西郷氏率いる官軍の調略により内部崩壊し、
 玄秋は五稜郭にて自刃して果てた。
 幼くして家督を継いだ玄冬は、
 戦乱を避けて本拠地を札幌に移し、
 馬と共に大地に生きる決意をする。
・しかし、時代の趨勢には逆らえない、
 宿敵足利氏が北の大地を睨んだ戦略を立て始め、
 海峡の先端に奥州探題を設置したことにより、危機感を募らせる。
 たつべ連合への参加は、馬借として親交のあった郷錦氏の薦めによる。
 「反足利、反体制」としての御人的怨恨に由来するため、
 盟主たつべ氏とのあいだに理念の共有はなく、
 あくまでも郷錦家の盟友という位置関係を貫いている。


<性格>
・祖先から受け継ぐ「一匹狼」としての性格を色濃く持つ。
 家系からして、時代の趨勢を見誤りがちで、
 これは反体制思考、
 つまりは天の邪鬼的な権力への反発が原因となっている。
 権力のある者でも納得がいかなければ噛みつくことがあり、
 孤立しがちな困った武将でもある。
・基本的には慎重派なのだが、祖先を引き合いに出すまでもなく、
 突如として思い切った行動に出ることもある。
 そしてそれが、往々にして家臣の悩みの種となっている。
・足利氏や西郷氏への徹底的な恨みが行動の根元なので、
 全国制覇などの野望は持っていない。
 基本戦術は、
 自国領(テリトリー)への他大名の侵略に対して、
 自衛するといった程度。
 金色の馬とも呼ばれる道産馬を操る遠征戦略を得意とするも、
 先代の戦費超過による財政逼迫にてそれもままならぬ状況。
 現在は五稜郭や海峡を望む箱舘山を官軍より奪還し、
 足利氏(国枝氏)の動向を注意深く観察している。

★郷錦連合軍★
【波多家】
●波多良太郎
 『今こそ歴史の表舞台へ!』

<家紋>
・二つ引両に三つ星
 一族本来の紋は「三つ星」。
 勝ち星を意味する三つ星は武家の必勝祈願の紋。
 使用家が多く、出自を辿ることは困難である。
・また、引両紋は室町時代に
 足利将軍家より下賜されたもので、
 その誇りとして、両紋を合体させて使用するようになった。


<本拠地>
・筑前國飯塚

<出自>
・信濃国波多郷(現:波田町)の郷士に遡る。
 室町期に足利将軍家を助けたと伝えられるが、
 他家に攻められて敗走するところを匿ったもので、
 家臣として武功があったとか、政治に携わったというように
 歴史の表舞台に立った訳ではない。
・数代前に肥前國佐世保に移り住んだ。
 当代良太郎は元服後に尾張の大名家(当時は恩田氏領)に出仕、
 三河(当時は書くの氏領)へ間者(スパイ)として派遣される。
 しかし、尾張・三河両国の気候風土に体が合わず、
 また、謀略中心の仕事に失望し、
 震災を期に筑前國飯塚に舞い戻り、
 ここで大名として旗揚げ。
・たつべ連合への参加は、
 郷錦家の名馬交流を通して行われた。
 参戦は足利家による全国包囲網より九州を救うこと。
 当代は現:足利氏を足利家の嫡流とは見なして居らず、
 将軍家を騙(から)る不届き者として敵視している。


<性格>
・気分屋大名。
 様々な政策・奇策を打ち出す機転の利く大名として知られる。
 が、一方で思い通りに事が進まないと不機嫌になり、
 家臣郎党に当たり散らす一面もある。
・基本的に忠義に対して報恩は怠らず、
 出来高重視とはいえ、仁義を重んじ人間関係に篤い。
 と、本人は思っている。
 現実は前述の通りではあるが。
・基本戦略は周辺併合型の手堅い戦略。
 歴史の裏舞台に強い家系故に、
 また、本人が間者の経験があるために、
 調略を弄する傾向がある。

★郷錦連合軍★
【播久州家】
●播久州立府(ぱんくす りっぷ)
 『子孫繁栄こそ当主の務めじゃて!』

<家紋>
・三つ葉葵
 葵と言えば徳川将軍家の専用紋と思われがち。
 しかし本来は加茂神社(京都)や善光寺(長野)
 等の神紋として長くから用いられてきた。
 徳川氏は加茂神社の氏子ということで、
 この家紋を用いたに過ぎない。
・同様に、播久州氏も浄土宗善光寺の有力檀家。
 徳川の治世が終わり、
 専用紋などという徳川家の思い上がりにより、
 長い間使用できなかった紋を復活させた。


<本拠地>
・播磨國三木

<出自>
・元々は信州小笠原氏の配下武将、伊那氏。
 善光寺の有力檀家として、
 どちらかというと政にて功のあった文官である。
・幼少期は政治的な圧力により、
 主に美樹氏眷属によって人質に取られる。
 善光寺派の僧兵の動員を要請するためである。
 しかし美樹氏が劣勢となると、
 美樹氏の眷属は立府を次々と盥回しにし、
 伊那−長野−北佐久−高崎と、
 時代に翻弄され各地を転々とする。
 そのため、美樹氏に対する恨みは根強い。
・震災後に一時は安曇野にて恩田氏に捕らえられるも、
 郷錦家に保護され、播磨に逃がされる。
 この時、この地を永代の領地にすることを決め、
 姓を播久州に変えた。
・たつべ連合へは、前述の経緯から郷錦氏を介して参加。
 愛馬の血統を共有する仲間として
 志馬氏との対面も果たし、
 連合と共に天下統一の野望を抱くことになった。


<性格>
・人質時代の過去から、母の愛に飢え、
 その反動で色を好む様になったという。
・しかしながら、長きの人質時代に年増女中に寵愛されたことが祟ってか
 若い娘は滅法苦手との噂も耳にする。
 ただし色にまつわる想像力は逞しく、その想像力が創造力へと昇華し、
 戦術に活かされれば、大化けする素質は持つものと推察される。
 残念ながら、
 未だに汚らわしい妄想のみに留まっているのが悔やまれる。
・肝っ玉は滅法弱く、
 ある戦では圧倒的な兵力と戦術にはまり敗退、
 糞を漏らしながら城へ逃げ帰ったという。
 しかし、このときの教訓は、
 天下分け目の合戦で生かされることとなる
 ・・・・・・予定。あくまで予定。
・座右の銘「鳴かぬなら己が泣こうホトトギス」
・戦略は地域拠点突破が中心。
 支領が多いために攻められやすい欠点を持つ。


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