ほぼ月間webちょっ?
第12号:2003/08/27
目次
@虹のもとへ
A小さなメダル
@虹のもとへ
「大それた望みはあまりない。
小さな幸せがたくさん欲しい。」
そんな願いを耳にする。
それはある意味、大それた望みだろうと思う。
幸せなんてモノは気の持ちようで大きく変わる。
「小さな幸せ」を望んでいる時点で、
幸せを逃しているような気がしてならない。
そういう人が求める幸せのハードルは、
実は結構高いのだ。
そして私も、その一人。
幸せを実感出来ないこと自体がたぶん、
不幸せ体質なんだろうなぁと、漠然と思う。
抜けられそうで抜けられない、
自縄自縛の小さな迷路。
真夏の迷路に、雨が降る。
天を仰いで、すぐ近くに晴れ間を見つけた。
そして僕は「ああ」と思う。
今まさに、僕の上には虹が立っているのだと。
自分では見ることの出来ないもどかしさ、
そこに僕は、いじわるな幸福の一面を見た。
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Aちいさなメダル
財布に紛れ込んだ、一枚の異国の白銅貨。
何故か取り出せず、入れたままになっている。
そんな人が、時々いる。
無機質に「硬貨(Coin)」と呼ぶには忍びない、
まわりまわって巡り行く、
ささやかでちいさなお守り(Talisman)。
何故だろう、
このようなチープなお守りに、
人は小さな愛着を感じるのは。
ある時、
とても落ち込んでいた私に友人が、
四つ葉のクローバーのデザインをプレスした、
小さな白銅のメダルをくれた。
雑貨屋でたまたま目に付いたというそのメダルは、
メダルと言うには少しいびつで、
デザインも正直少し素人っぽい。
逆にそこに微妙な味があるのか、
私もそれを、財布の中から取り出せずにいる。
「幸せになろうぜ。」
そう言いたげなチープなクローバーをみると、
どこか斜交いな私の心にも、
素直に頑張ってみようかな、などと、
少しは殊勝な気持ちが湧いてきたりもするのだ。
ちいさな暗示に、ちいさなメダル。
愛着と共に手離せないのは、
私達のちいさな、願いなのかも。
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<note>
・「虹のもとへ」
ありふれた人の、ありふれたお話。
ベタベタで落ちまで解る、使い古された比喩。
新鮮であろうとは思いませんでした。
万人の不幸せが、晴れますように。
・「ちいさなメダル」
今回のwebちょっ?のテーマは、もうお解りでしょう。
【しあわせ】の在処について、です(笑)。
自分がこういう状態なんで、
こんな短い文章なのに、
原稿用紙換算で何枚書いては消していたんだろう(爆)。
ううむ、難産。
よくよく考えると、
話題を膨らませれば趣味人シリーズに出来る内容なんですよね、これ。
私なりの、モノに対する価値観がきちんと出せればの話ですが。
ちなみに白銅貨というのは、ニッケル硬貨のことです。
(日本の硬貨で言うと、百円・五十円・一代前五百円がこれにあたります)
もともとは貨幣価値としての銀の概念が崩壊したあと、
銀の代用として使われてきた金属です。
お守りとしても同じで、
銀は様々な良い意味の比喩を得て高級なお守りとして使われ、
白銅は廉価の様々なお守りに、代用として使われることになるわけです。
チープさの根本は、こんなところにあるんでしょう。
敢えて白銅と材質を入れたのは、そんな理由に拠ります。
本文には書きませんでしたが、
実はメダル(medal)と書いて、「メダイ」と読むお守りがあります。
公教(キリスト教)のお守りで、
特にマリアを始めとする聖女(ルルドなど)を信仰するもので、
高級品は女性の純潔の金属、銀がつかわれるわけです。
もちろん代用品は白銅であるのは言うまでもないでしょう。
そういった民俗的なバックグラウンドを考えてみると、
日本の白銅貨って、
無意味でつまんないデザインだなぁと常々思うわけです。
(まぁ、日本はキリスト教圏ではありませんが)
鋳造技術云々は私にとって、どうでもいい話なんで。
お金というのは、いわばその国の文化でもあるんですよね。
貨幣単位を統一すればいいという話ではないというイギリスの主張、
頑固かも知れないけど、とても共感出来ると思うのですが。
ああ。
話がどんどん逸れてゆくのでこれで終わりにしましょう(笑)。
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